「普通、死の脅威は、自分の人生について、人に多くのことを気づかせてくれるものだ」
ブラジル人作家、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」の中で、
錬金術師が夢見る少年に言った言葉をふと思い出した。
今回の東日本大震災によって、
僕らの身近で、多くの人と多くの物が失われた。
とても悲しく、残念な出来事であったけれど、
今日本は復興に向けての大きな一歩を歩み出そうとしています。
こんな時、自分には何が出来るかを考えてみてはみるけれど、
たいそうな事はできやしないと嘆く。せめてもと、町中の募金箱に
小銭を入れるのが精一杯だ。
実際に炊き出しの手伝いでも出来ればと現地に向かった友人を尻目に
自分にはなんて行動力がないのだろうと更に嘆き、悶々とした日々を
送っている人も少なくないのではないかと思う。
それでも、誰かの手によって、炊き出しが手渡され、毛布が手渡されるのに
引け目を感じる必要なんてないと思う。
結局、人は自分の気持ちより、「他人が、その行為をどう思うか」という方が、
もっと大切になってしまっている事が多いだけなのだ。
恥ずかしさなんて、その典型で、、、
少し我慢すればよいだけなのに、なかなかこれが難しい。
高校生の時、目当てのお店に行く為に、その類いの洋服を先に買って、
召し合わせてから行く事がよくあった。他からみたら、なんら変わりないのに、
景色すら変わって見えるから不思議だ。
ややもすれば、きっと自分の葬式にまで体裁を求めて……なんてなるかもしれないw
けれども「我が生涯に一片の悔いなし」と天に指をかざすのも自己満足にすぎないと思う。
周りから見たら、なんら変わりないのだから。
結局、被災地に炊き出しを差し出す行為ではなく、炊き出しを差し出す気持ちが大切なのだ。
それで十分。
大げさだけど、本当に届けたければ、メロスのように走ってでも行くはず。
そんな訳で、不純な気持ちを純粋に思うべく、考えてみた。
人は一人では生きられなくて、人の助けや存在、物が、自分を生かしてくれていると思う。
それは自然界全てに当てはまる事で、
太陽がなければ地球もない。鮭がいなければ熊も困る。
何もしていなくたって、何かに影響を与えている。
けれど、普通に「我が生涯に一片の悔いなし」と思いたいなら、
生かしてもらっている変わりにではないけれど、誰かや何かの為に真剣になるのも決して悪くない。
自分の最期に、自己満足の気分に浸るか、大勢の中の一人に浸れるか。
この差は大きいと思う。